とりえかんざし

いつもなにかにこころをよせて、恋していたい

時雨の記 -中里恒子(なかざとつねこ) -文春文庫

隔週記事を書きたいとりえです。日曜日のお題は「読書」。


去年の暮れから読んでいる本があります。

1日の終わりに数ページをめくり、心が充たされるぎりぎりのところで、ぱっと手離し、眠りにつく。

言葉ひとつひとつに魅了されていたものですから、どうしても、一気に読むのが勿体なく感じました。
食事の栄養と同じく、ちょっとずつ咀嚼して、大事に大事に吸収していきたかったのでしょうきっと。

そのような本なのです。

そうして、ようやく読了したのがこちらです。

時雨の記 (文春文庫)

時雨の記 (文春文庫)

恋愛小説です。
(古屋健三さんの解説より引用しますと、「大人が読んでも気恥ずかしくならない、いや、大人でなければわからない恋愛小説、それがこの『時雨の記』だと思う。」)

その恋は、飾りたてることもなく、かといって平凡でもなく、欲にまみれることなく、なんといったらいいのでしょう。
つつましく、ただただ思いのあるものでした。

恋そのものを垣間見るような。

手に入れたいものがある。けれど大人はそうはしないのです。お互いそう思っていても、たとえ手を伸ばせば届く距離にいようとも、そうはしないのです。限りなく叶わぬ恋でありながら、既に叶っているような錯覚を覚える。

読了後は、冷たさと温かさが入り交じった温度を、寂しさの中にろうそくの一点の火の光を灯したような幻を感じます。

古風な文体を、自分が食わず嫌いだったことを思い知りました。
本書のそれは、古さを感じさせず、きれいで上品で、読み進めていくほどに、むしろそのほうが心地いい。

会話のシーンがおかしくってしょうがないのに、時にふいうちをくらったように、心がどきりとする。
気づいたら、こっちの心臓などお構いなしにどっきんどっきん、たたみかけてきます。


好きなところを引用させていただきます。

握力という、握る力、あれが、小さい頃はゼロに近く、なにかにつかまる、ぶら下る、という握る力が弱くて、つかんだものをいつも、さっと離してしまいました。握力は、手だけでなく、心理的にもあるのではないかと、多江は、自分を判断しているのでした。

會(会)ってどうしようなんてことは、考えなかった、昨日會った、明日も會いたい、それだけのことでねえ。どうして昨日會ったから、また今日も會いたいというのがおかしいのか、わたしは合点がゆかない。

握力ゼロ、独りでひっそりと咲く多江と、なんとしてでも掴みたい、手離すもんか。そんな調子の壬生(みぶ)。
二人の物語です。


この本に出会えてよかった。この本の中に生きた二人に会えてよかった。この本を読める自分がいてよかった。
そう、しずかに、思える。

おすすめ。