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とりえかんざし

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すっきり「わりきる」ことのすすめ

わたしにとって、「美味しそう」と「美味しい」の違いはばかにできない

 

作り方を覚えた、記録した、たくさん見つけた

これはとても、「美味しそう」

 

作ってみた、食べてみた、これは不味い

これは、「美味しい」

こうしたら「美味しい」

 

「美味しそうだねえ!」
「これってさ、美味しいんだよ?」

「あはは、知ってる?これってすごーく不味いの」

 

「美味しそう」も想像力が掻き立てられて、とても楽しいです、それは認めます

 

けれどそれで満足したら世界が狭いのです

 

***

 

 わりきる

 

思いつきを記録に残します。変な話なので気になさらないでください。

 

「わりきる」という言葉を聞いて、嫌なイメージを持つ人は少なくはありません。わたしも含め、そういう人の頭の中では、

「わりきる」=「何か大切なものを切り捨てる」

という式が成り立っているからかもしれません。

 

このときに言う、「何か大切なもの」というのは、たしかにその人にとって大切なものなのです。

それを「わりきる」ときに、何が起こっているかといいますと、 「何か大切なもの」を切り捨てなくてはならないほどに、「別の何か大切なもの」がでてきたということになります。

 

「わりきる」ときの嫌悪感というものは、最初から存在した「何か大切なもの」の“すり減り”にのみ、焦点があてられているからで、

「わりきる」ことで生じる「別の何か大切なもの」の“ふくらみ”を過小評価しているからにほかなりません。

もしくは、「わりきる」ことを許さない誰かやきまりの存在のためです。(そういう許さない人も、「別の何か大切なもの」に盲目になっているか、忙しさの病により、気づけないだけの場合が多いです。大切なものに順位はないはずなのに、です。)

 

いわば、その人にとっての大切なものが、元々存在していた「わりきる」ことのできない「何か大切なもの」 それだけで視界が絞られ、他(た)に盲目になり、

「わりきる」ことができないのは、自他共に、しょうがないねと許してあげることができないからです。わりきってしまったら、お客さんに顔向けできないと、自分を追い詰めているのです。お客さんだけを大切にして、自分を大切にしていない典型です。

 

今日はここまで。残ったものはしょうがありません。

 

そうやって、自分もあなたも、みんなも、許してあげたら、気持ちも軽くなりますし、メリットはそれだけじゃありません、自分の“ここまで”という、できることの限界も確認することができて、とてもいいことなのです。自分を知ることができるのって、とてもいいことなのです。

 

「わりきる」というのは、途中で辞めるということではありません、やれるだけやって、それでもできなければ、今日はここまで、と、

今日と明日を

できることとできないことを

割って切ってあげることです。その限界点を認識し、次を見据える通過点なのです。

 

それを認識せずに、工夫も改善もありっこありません。(ありっこありませんって変な言い方?)

時には「わりきる」ことで、自分も含めたみんなの幸せを上手に分配してあげることが、なにをするにしてもです、上達と、長続きの秘訣な気がします。

 

今日はここまで、明日はここから。

それをうやむやにして、どうして、続きをできるでしょうか。

 

授業の上手な先生も、仕事のできる上役も、素敵な作品を作り出す作家も、その節目の認識をきちんとしてる。

 

と、(わたしは)思う!