とりえかんざし

いつもなにかにこころをよせて、恋していたい

言ってることちがうよ

わたしの周りの人はみんな、前に言ったことと、言っていることが違います

最近よくその違和感とぶつかります、ので、少し整理しておきたいと思います

 

 

(※今日はしけんてきに、たくさんかいてグチャグチャしてみました。意味不明さと、読みづらさを、ここでお詫びいたします。)

 

記憶力の低下か、はたまたとぼけてらっしゃるのか、都合上なのか、わかりませんけれど、とにかく同じ話を初めてするような口調で喋ったり、昨日言っていたこととは違うことを平気で言うのです。

 

どうでもよいことならば、なんでもないのですが、約束したことや、一方的でも、わたしが依存していた言葉が、どこか知らないところへ消えてしまうのは少し悲しいです(他人の言葉にもたれかかってしまうわたしのせいでもあります)。同じ人が、同じ口から、違うことを言うのですからなおさらです。

 

しかし、なによりも、そのことを指摘できない臆病さ、もしくは指摘しても、うまく伝えることのできないわたしの表現力のなさに、わたし自身うんざりしてしまいます。

 

とかいいながら、

わたしだって「毎日更新する」って 言っていたこのブログを、ずうっと、お休みしていたじゃないか。

 

…ご、ゴメンナサイ!

 

毎日かくのはぜったいです。だれにめいれいされたとか、かかないと、おそろしいばつが待っているとか、そういうものはないのですが、ぜったいと決めていました。ぜったいはぜったいだから、ぜったいなのです。

 

 

感動や気づきのえられなかった日のような、何もない日、いかりやにくしみがこみ上げてくる日は(めったにありませんがあはは)、前者は、ネタがなくて、後者は、自らを不幸にすることばを使いたくなくて、ペンが進まないことがありました。が、

そんなのは、じょのくちです。

困るのは、本の世界にぼっとうしたときです。

日記は「わたし」のことをかくのがふつうです。ですが、本を読んだ直後は「わたし」がどこかへ行ってしまうのです。

そんなときに日記をかくのが悪いのですが(読書感想文が上手にかけたらいいのにな)、そうせざるをえないときもあります。

 

気分や体調や悩みなど、そんなイレギュラーというものを、どれだけなくしていけるか、

そして、どんな心持ちと選択で毎日を過ごしていきたいのか。わたし自身の欲の使い方が、これからのカギとなっていく予感がします。

 

かいていて、わけがわからなくなってきましたが、かかない後悔より、かいた後悔。やらなかった後悔より、やった後悔のほうがいいというのは、年配の方からの信頼性の高いお言葉です。

日記もどんなかたちだとしても、かかぬより、かいた後悔を選ぶ、そんな宣言みたいなもの。

 

だってあとで「去年の今頃何を考えていたのだろう?」って、頭の中だけじゃあできませんけれども、日記ならそれができる。読み返せるのって、なんかいいよ。

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本が読める!(別の日にかいています)

 

読書についてお話しします

昨日まで全然だめだったんです

本を開いても内容が入ってこなくて、物語の中に入り込めなくて、文字を見るだけでもうお腹いっぱい、ちょっとでも目の中に詰め込むものなら、心臓がどろっとして、頭の中が破裂しそうだったのでした

 

それが最近になって、というより、今ですね、、、

本が読めてしまうんですうはは。

なぜだかわからないけれど。

 

イメージがちゃんと浮かんでくるし、頭が文字を受け付けるようになってるしで、少し回復しているみたい。

 

そういえば、昨日の夜、うんうん悩んでたあげく、はてなブログの、わたしの過去記事を最初っから、1ヶ月分ほど読み返したのでした。ひまだね。

あと、余暇時間とメモリを浪費しているであろう、アプリをアンインストール。

そして先ほど本の整理整頓と、読んでいない、手離す本をまとめました。

 

情報処理がうまくいくようになったのか、なにか重い荷物をおろせたのか、なにがきっかけかは、はっきりとはわかりませんけれど、本を読むことが、わたしにとって一番身近で効果のある「動く」であることはたしかなので、再び読めるようになったのは、好きが増えるのと同じことで、とても喜ばしいこと。

 

 

「好き」は気持ちで、欲は「選択(意思)」

何か足りない、足りなければ動けない、始められない、そんな依存から抜け出すために必要なモノ

 

二つが合わさって、「わたしはこう思う」

 

物語が進まないのも、これがないせいだったみたい

 

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おまけのらくがきんちょ


おやすみなさい