とりえかんざし

いつもなにかにこころをよせて、恋していたい

文章をかけるようになるには

学びを生きがいとし、本をよく読み、心のかたむく対象あらゆることに、理解を深めていく。いっぱい感動して、たくさんの謎を抱えながら、答えのない世界に翻弄される。とても楽しい。

 

知っているだけでは意味はない。わかっているだけでは、なんの役にも立たない。勉強は、知らない人に教えるためにするものだから、宝のもちぐさればっかりしてないで、どんどん外へと出す練習も大切、とても大切。

 

インプットが「体験」だとすれば、アウトプットは「表現」で、表現するための手段として言葉ひとつひとつがあり、そのかたまりとして文章があります。

 

学びが生きがいならば、それに負けないくらいに、文章を書く力をきたえ、詰め込んだ分だけ空っぽになるくらいに表現していくことが、さらなる学びへとつなぐ好循環を生み出すヒントであります。

 

文章力があれば、学びのスピードはだんちがいです。勉強したいことがあったら、それを人に教えることが、一番の近道であることだって、言葉を換えただけで、「より学べる」という共通の見地を表しているのです。

 

さらに、文章がかけるようになると、自分で書いたものを活用できるようになります。

インプットにインプットを重ね、頭の中だけで考えていては混乱が極まるばかりで、足が地面からどんどんはなれていってしまい、ふわふわのふわふわ。わたしはどこ、わたしはだあれ。

だけれども、紙の上に言葉を落とせるようになれば、頭の中が整理され、内容が視覚でも確認できます。間違いや、堂堂巡りなども明らかになり、いらないものと、いるものの区別がつくでしょう。

 

書くことが苦手だからといって、なんとか書こうとして、抽象的な言葉ばかり使っていると、文章力はつきません。なぜなら、抽象的にすればするほど考えなくていいからです。わからないことを、 わからないままでも、不思議とさまになる(しかもなんとなくのニュアンスで伝わる可能性も秘めている)便利さの裏には落とし穴があります。

学校のテストなどで必要に迫られて、原稿用紙を埋めるためには、それはもちろん必須のテクニックですが、じぶんのために文章力の養成をはかりたいとしたら、きちんとした言葉に当てはめていくことが肝腎です。穴埋め問題の要領で、じぶんの頭の中の空白が、具体的なもので少しずつ埋まっていき、もやもやと霧がかかった状態から、しだいにくっきりすっきりとクリアーになっていくような感覚を捉えて。

具体的にどうやってぴったりくる言葉を当てはめるのか。それは、「調べる(探す)」。それしかありません。

 

書くことが嫌いなときは、たいてい、無理やり書いているときです。書きたいとき以外に書こうとしてたら、そんなものです。かといって、書きたいときが来るのを待っていたら、寿命が尽きてしまうでしょう。

それよりも、どんなときに、書きたくて(話したくて)しょうがなくなるのかを思い出してみましょう。

 

だれかになにかを見せたいとき、いいことを教えてあげたいとき、感動を共有したいとき、ただただ見てほしいとき、ぐちゃぐちゃな頭の中をお掃除するとき、びびっときたフレーズを使いたいとき、あこがれゲージがMAXになってるとき、共感してほしいとき、いいものができたとき、おもしろいことがあったとき、すごくまずいものを食べたとき、季節のイベントを楽しみたいとき、なにかを祝いたいとき、心臓がどきどきしてるとき、ひまなとき、なんとなくetc。

 
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適当に書いて、原稿用紙のマスを埋めるようなマネはもうしません。書きたいときじゃないのに書くことをしてたらきっと作文を嫌いになってしまうからです。だから、とにかく量をこなしていた今までとは、また別な努力が必要だと感じます。

わたしは文章をかけることにあこがれ続けています。もはや今生のテーマです。好きでなくちゃ始まらないのです。かくことが好きでなくちゃ、始まらないのです。今日より明日、少しでもよいものがかけるようになることを祈って。